ウィリアム・シェイクスピア


●「マクベス」(新潮文庫)

かねてから、心の底では王位を望んでいたスコットランドの武将マクベスは、荒野で出会った三人の魔女の奇怪な予言と激しく意志的な夫人の教唆により野心を実行に移していく。
王ダンカンを自分の城で暗殺し王位を奪ったマクベスは、その王位を失うことへの不安から次々と血に染まった手で罪を重ねていく......。

 シェイクスピアに限らず、古典作品は作品自体のエンターテインメントとしての面白さが十全に味わえるかどうか難しい。海野十三でも引用しましたが、やはりゲームミュージックチームZUNTATAのアルバム「nouvelle vague」からコレを。

>クラシカルなものとして定着してる多くの芸術は、その誕生時には、いびつな捉え方をされていた。「バロック」や「歌舞伎」という聞き慣れた言葉ですら、その意味は“異端”を示すものだった。
だからといって(ある意味で異端の)、VGMもいずれはポピュラーな音楽として認知されるということを期待しているわけではない。いや、むしろそうはなりたくない。60年代、トリュフォーやゴダールといった作家の映像を初めて見た時の戸惑いや驚きを、SFXや様々な映像テクニックに慣れ親しでる現代人にそのまま求めるのは無理だし、ジュール・ベルヌの「月世界旅行」や「海底2万里」を今の子供達に読ませても、当時程のときめきを感じさせることは不可能だろう。
その意味では“ヌーベルヴァーグ”とは賞味期限付きの禁断のお菓子なのだ。それを、時代を超えて食したいと思うのならば、『定型』という保存料を加えなければならない。そして、その瞬間に「ヌーベルヴァーグ」という呼称は次なるものへと逃げてゆくのである。
時代は変わっても人間の本質は変わらない、なんて誰が言ったのだろう? 誰とも違わない本質なんてつまらない。定型化して解釈付きの芸術となるよりも、二流のヌーベルヴァーグを選択したいのだ。

 結構トンガってる文章ですが、『新鮮なものを新鮮な内に一番美味しく味わう』考えは理解できます。いま味わってる「焼き魚」としての古典も、リアルタイム発表時には「刺身」の旨味もあったであろうと思います。

 当作品「マクベス」は魔女の予言が予言通りに進行する内容です。「女から生まれた人間」は誰もマクベスを倒せない。この『絶対予言』に守られたマクベスが如何に敗北するかがドラマの見せ場。絶対予言が無効化するコトなく、その予言通りに(もちろん病死や事故死でもなく)マクベスが破れる瞬間が燃えポイント。

 予言の解釈が裏返る、このコトを『きれいは穢い、穢いはきれい』と言ってるのではないかと思いました。

(20021001)


「ハムレット」(新潮文庫)

城に現われた父王の亡霊から、その死因が叔父と母の計略によるものであるという事実を告げられたデンマークの王子ハムレットは、固い復讐を誓う。道徳的で内向的な彼は、日夜狂気を装い懐疑の憂悶に悩みつつ、ついに復讐を遂げるが自らも毒刃に倒れる---。

 復讐劇というシナリオは当時も沢山あったのですが、この作品はそれらの復讐劇の基本構造/一本道からちょっとずつ外れようとする主人公ハムレットの動きを感じます。復讐は自らをも滅ぼす。それをハムレット自身(もしくはシェイクスピア)が知ってて、誰もが陥る従来の自滅着地の復讐劇から逃れる、リベンジャーの勝利で終わる新しい復讐劇を紡ぎ出そうと葛藤してる感じがします。最終的な着地は結局破滅なのですが、この過程が従来の復讐劇と異なるので当時観劇した人には新鮮だったんじゃないのかなあ。

 予言の運命をひたすらトレースする「マクベス」と、運命から外れようとする「ハムレット」。骨組み/着地が共に「悲劇」ながらも、作者が作品を作る際どうアプローチしたのかが非常に対照的です。

 ハムレットというキャラクターは非常に好きです。上記の理由から客観的で思慮深いキャラクター造型になっています。冒頭の幽霊目撃シーンから電波系として捉えてみようかと思ったのですが、幽霊を目撃してるのってハムレットだけじゃないんですよね。単に幽霊の存在は有りという世界観なんでしょう。

(20021001)


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