京極夏彦
「京極堂」モノはシリーズに貫かれてる基本構造がイカしてますね。
過去、妖怪という存在が如何にして生まれたか。
基本は錯誤。誤認への納得のゆく答えを求めての結果。
何やら説明の付かない現象にどうにかムリヤリ理屈付けしようとした結果、「迷信」や「妖怪」というものが生まれた。理解不能に対する恐怖を、「妖怪」という架空ながらも当時の人がそれで納得し恐怖を取り除く為の理解可能な存在を生み出した。その理由付けが誤認のまま変遷を経、具現的な「絵」などを伴う妖怪の「イメージ」として今日に伝わっている。
その一連の行程を昭和初期の日本を舞台に再構築し、解体。
分かりやすい、よく使われる具体例を挙げるなら
「昔なら狐憑きで片付けられていた事象も、現代では多重人格や自己暗示として解体可能」
ってのがありますね。
状況が「見えてない」「聞こえてない」「感じ取れてない」もしくは逆に「見えないものが見える」「聞こえないものが聞こえる」「感じるはずのないものを感じる」などといった錯誤行為から生まれる謎(妖怪)を物語の中で作り出し、そして如何にしてそういった錯誤が起こったかを探偵役の中禅寺秋彦が解き明かす(憑き物を落とす)。この解明こそが妖怪の正体を暴くと同時に、ミステリとしての解決編に相当する。
中禅寺秋彦を現代の陰陽師と呼ぶのはなかなかに相応しいです。
んで、その辺を抜きにしても、単純にキャラ萌えでも読めるのがこのシリーズの強み。
やっぱエノさんが一番人気なのだろうか? 榎木津礼二郎、飛び過ぎなキャラです。それとも中禅寺ですか? この男のまくしたてはかなりエグい。
僕は伊佐間激ラブだけどね。
コイツの生き様に共感。衝突を避け、のらりくらりと生きている。やる気なさ過ぎ。
●「姑獲鳥の夏」(講談社ノベルス)
シリーズ第一弾ですが、実は2作目以降の索引的な内容ともとれると思います。そもそも商用に書かれた作品ではないので、アイデアぶち込みまくりです。ここでちらりと出てきたアイデアを次作以降で改めて用いてる感じ。なので「姑獲鳥の夏」の「夏」は作者京極夏彦の「夏」だと僕は信じている(笑)。
●「魍魎の匣」(講談社ノベルス)
シリーズ中、もっともインパクトが強い作品。皮相的な演出だけでも凄いんですが、メンタルな部分でもかなり残留を喰らわせてくれた作品です。
●「狂骨の夢」(講談社ノベルス)
何てったって伊佐間大活躍。この作品でも大仕掛けが炸裂します。
●「鉄鼠の檻」(講談社ノベルス)
玄人受けならこの作品が一番なのではないでしょうか。僕にしてみりゃ非常に難解でしたが、禅を扱ってるミステリではやはりベストと思います。
●「絡新婦の理」(講談社ノベルス)
展開する蜘蛛の巣の装置。中禅寺ファンならこの作品かなり燃えれます。
●「塗仏の宴〜宴の支度」「塗仏の宴〜宴の始末」(講談社ノベルス)
扱ってるネタがネタだけに実はシリーズ中でもかなり好きな作品です。中禅寺のライバル的存在もここにきて遂に出現し、もうそれだけで燃えます。
●「百鬼夜行-陰」(講談社ノベルス)
これは妖怪の再構築のみで解決がないものも含まれています。なのでシリーズを知らなきゃホラーに入るかも。
●「百器徒然袋-雨」(講談社ノベルス)
榎木津が主役を張る中編集。帰納法というより展開法で物語が進む雰囲気がありますね(作者はいつも通り帰納法で執筆したんでしょうが)。榎木津、キャラがキャラだけに予想不可能なことをやってのけるので楽しい。
●「ルー=ガルー」(徳間書店)
21世紀半ば。清潔で無機的な都市。仮想的な均一化した世界で、14〜15歳の少女だけを狙った連続殺人事件が発生。リアルな“死”に少女たちは覚醒した。......闘いが始まった。
これは「月刊アニメージュ」などで約半世紀後の未来想像図を募って作り上げた作品です。巻末のスペシャルサンクスに公募(採用?)者の名がそりゃもうズラズラ列記されています。京極らしく相変わらず分厚いのですが、他作品のような衒学による分量肥大化ではなく、この未来シミュレーションによる新しい社会の説明がその分厚さを担っています。社会、もしくは現在の延長にある新しい文化の構築でしょうか。
文化の違いは価値観の違いにも繋がります。草!g剛扮するチョナン・カンも日本じゃお笑いキャラですが、韓国ではどんなキャラなのか分からないように。その辺あまりに格差があると読んでて何も分からない内容になるので、主人公の一人に現在の価値観を持つ(作中では古風な存在になるのだろうか)少女を設定し、読者とのブリッジを残しています。
SFはどうしても『自然(もしくは現在)が一番』的オチに着地するのが多いんですが、この作品でも事件が起こった時、現在と異なる部分/新しい社会ならではの側面が問題になるのは、物語力学の要請でしょうか。
更に、社会や文化の違いはミクロな視点にシフトすると個人の違いにも繋がります。いわゆる「人それぞれ」。「人それぞれ」は得てして主義主張に対して言われる言葉ですが、この作品では主義主張の違いではなく、即物的な部分で表現しています。
形状認識異常。
現実に網膜が把握する世界は、写真に写した画像の様に視えている。でも、アニメやデフォルメされたような絵と写実的な絵の区別がつかない「形状認識異常」という症例もある。これは極端な例だけど、人それぞれで映る世界は異なっている。この辺が興味深かったです。
というわけで、あなたの目にはチョナン・カンはどう映っていますか。あなたのブラウザではクサナギのナギはどう映ってますか。
(20021115)
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||