北村薫


●「謎物語」(中公文庫)

物語や謎を感じる力は、神が人間だけに与えてくれた大切な宝物。名探偵も、しゃべるウサギも、実は同じものなのかもしれない---博覧強記で知られる著者が、ミステリ、落語、手品など、読書とその周辺のことどもについて語り起こした初めてのエッセイ。

 ミステリに限らず、様々な作品への接し方、北村薫観を綴っているものです。「作品」というものに対する優しさ/愛情に満ちた内容になってます。著者の懐の広さを感じます。

>ミステリ新人賞への応募は多い。これがミステリ・コミック新人賞なら、応募する人は限られるだろう。コミックなら、自分の描く画面が、素人でも、駄目なら駄目と自分で納得できる。しかし、海の絵は描けないという人でも、《海》という一字は書ける。(P113)

 ここで感じたのは、客観力の有無に関するコト。文字という記号なんざは誰でも書けるから、それを紡いだ文章ってのはパッと見では良し悪しが分からない。自己に対して客観力を持ってないと、才能のなさに気付かずダラダラ小説家志望を続ける危険性を秘めてます。

 あと、関連して思い出したコトに、これは山口雅也の言葉と記憶してるんですが、「クリエイティブな仕事につきたい人はまず漫画家を目指し、挫折して次に音楽に走り、最後には小説家になる」って内容の発言がありました。小説家ってのは最後の最後、妥協に妥協を重ねた底辺。もちろん山口雅也が小説家だから許せる発言で、こんなコト許斐剛が言ったら暗殺です。

 このクリエイターのヒエラルキー、非常に失礼なランク付けなんですが、もっと失礼なのは、僕がまったくその通りだと考えてるコトです。表現する為に必要な技能の差が明らか。ヒエラルキーが下るとどんどん発信者側の表現力が縮小していく。その表現力の縮小は表現対象の不明瞭さを生むのですが、それが以下のように逆にメリットにもなる。

>作品は楽譜に当たるもので、それを演奏するのが読者である。読書は決して受け身の作業ではない。百人の読者がいれば、そこには百の作品が生まれる。名曲を弾くように、我々は名作を読む。
ただし、ここが微妙なところなのだが---そう弾いては演奏にならない、という線がある。それは創造において、優れたものと、無価値なものが歴然としてある、ということに外ならない。(P204)

 評論、というものに対する北村薫の考え方で、非常に優しい心構えです。作者の意図を超えた解釈は、それ自体が新しい作品になる。楽譜や演奏という例えが適切で素敵。映画化、なんてのもこれに該当しますな。監督の解釈/創造。

 ちなみに清涼院流水はこの考え方を逆手にとった自己弁護を講じているのでムカつきます。何も意図してないんだけど、とにかくそこから何か見い出してオレを誉めるように解釈しろ、というスタンスが見え隠れしてぶっ殺したくなります。

 評論に限らず、小説そのものでも既存の事柄を新解釈してるものがあります。高田崇史「QED百人一首の呪」なんかがいい例。

(20021123)


「水に眠る」(文春文庫)

恋愛小説/水に眠る/植物採集/くらげ/かとりせんこうはなび/矢が三つ/はるか/弟/ものがたり/かすかに痛い 以上10編収録

 解説が11名という異様な文庫。特に売りがないのでそうした際物な企画で目立とうとしたんだろうか。これは北村薫の初短編集なのでそれで充分目立ちそうですが。

 10編、特に統一性はなさそう。と思ったらあとがきに『「人と人」の「と」に重きを置いた作品』集と書かれていました。短編は作者が焦点を当てる部分が明確に滲み出るので、そこに照準をあてるってのは北村薫らしいです。

 「くらげ」がいきなりSF世界観だったのがちょっとびっくり。星新一作品のような感じです。星新一風ですが、(どの作品も)別にサプライズエンドを設けようとはしてない、あくまでも『個人と個人の繋がり』がテーマ。

 本心が分かりそうで分からない「ものがたり」のラストがイイ感じ。

(20030204)


「盤上の敵」(講談社ノベルス)

自宅に殺人犯が篭城、妻が人質に!? 警察が取り巻き、ワイドショーのカメラが中継するなか、末永純一は唯一人、犯人との取引に挑む。先手を打って城内の殺人者を詰め、妻・友貴子を無傷で救わなければ。盤上の敵との争いは緊迫のうちに進み、そして取引は震驚の終盤を迎える。

 理由も何もない、天災のように降り掛かる敵意、そうした現代的な『悪』を描いたという点で非常に評価の高い作品ですが、サイコサスペンスに触れてる自分としてはその部分にはさほどの衝撃を受けませんでした。平均的な本格読みは本格しか読んでないのでこういうのに免疫がなくて大騒ぎしたんじゃないのかな。笠井とかこの部分過大評価し過ぎだろ。

 そうした現代悪に関しては特に新しく得るものはありませんでしたが、ミステリ部分としての意外性は楽しめました。構成や序盤の状況説明からあれこれ推測させる着地を躱して、別のトコロに仕掛けが施されていました。

 北村薫らしくないとされる作品ですが、ほのぼの人情ものが北村薫らしさとされてるのかな? それゆえ理由なき『現代の悪』を扱った当作品がイレギュラーなものとされてるのかも。僕としてはこの「盤上の敵」のラストが『法を越えて裁かれる悪』なのに対して「冬のオペラ」のそれとはまるで対照的なラストの方に非常にシビアなものを感じます。

(20030311)


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