ハリイ・ケメルマン


「九マイルは遠すぎる」(ハヤカワ文庫)

九マイルは遠すぎる/わらの男/10時の学者/エンド・プレイ/時計を二つ持つ男/おしゃべり湯わかし/ありふれた事件/梯子の上の男 以上8編収録

 去年終盤にストーンオーシャン14巻を読んでた時、『作者の合理的解決と読者(僕)の納得感』に、開き/ズレを感じました。つまり、納得がいきませんでした。ジョジョは「論理的で本格ミステリ読みにもオススメ!」みたいな言われ方もされてるんですが、こうして見ると論理的じゃないよなコレ。ヒロヒコ論理と設定した方がイイ。

 等と思ったんですが、別にジョジョに限らず、本格ミステリの探偵の結論/合理的解決も所詮「結果的にその通りでした」レベルでしかないと気付きました。

 この辺については氷川透や西澤保彦が「本格の論理とはロジックではなくレトリック」と上手く言い表わしていますし、殊能将之の「黒い仏」ではこの「探偵の論理は詭弁」をネタにすらしています。

 本格を楽しめるかどうかは、「詭弁に気付かない」もしくは「詭弁を詭弁として楽しめる」という感じに思えます。作者サイドとしては、「詭弁を如何に自然に見せるか」というのも要求されます。ねーヒロヒコ。

 というワケで、本格のエッセンスのみで構成されていると言われるこの「九マイルは遠すぎる」、エッセンス/骨組みが明確な分、本格の論理が詭弁でしかないというのがダイレクトに理解出来ます。

 この短編集、2作目(わらの男)以降はいわゆる本格の枠組みになります。が、表題作は内容上最初から詭弁であるのを前提にしていて、それがラストのユーモアを一層活かしています。本格の論理/名探偵、「本格ミステリの姿」への皮肉と愛を感じます。

(20030124)


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